扉が内側に開く仕様でよかった。外側に開く仕様だったら、休日の朝をいかに有益なものにしようか思案を巡らせていた彼は意気揚々と扉を開けて、部屋の外に蹲る男の頭に大きなこぶをつくっただろうから。

全く、世の中は奇想天外に満ちている。

一体全体、どんな行いをしたら、冷静沈着、謹厳実直が服を着たような自分の同僚が自由気ままな猫みたいに体を丸めて廊下で眠りこけているなんて状況に出くわすのだろう。






まず、瞼が嫌に重かった。不快な眠気がずっと続いているような感覚。うっすら目を開けてみたら、目の奥が痛い。なるほど、これは眠気のせいだけではない。この痛み方からして腫れているような気もする。
昨夜、年甲斐もなく声に出して泣いたのを覚えている。あんな醜態をさらして、一体どんな顔で彼に会えるというのだろう。
無意識に「はぁ」と倦怠な溜息がこぼれた。昨夜の出来事の後悔と、寝付けなかった体の疲れからくる嘆息だ。
今日は、休日だ。既に日が昇っていることは肌に触れる空気の熱さでわかる。ジャマイカの湿気を含んだ蒸し暑さ。胸から下にかかる毛布が暑苦しい。熱気を閉じ込める薄い毛布を、体を器用に動かして床に落とし、それから壁際を向いてもう一度眠ることにした。
少し汗ばんだ肌に当たる空気は若干ひんやりとして心地よかった。爽やかな朝の眠りに再び落ちようとした時、またしても忌まわしい毛布がかけられて、ひどく不快な気持になった。私は邪険にその毛布を手で払った。その時、毛布をかけた何者かがいるということに気がついて、私ははじかれたように上半身を起こした。


「うわ」

「うわぁあっ」


情けなくも小娘のように叫び声をあげてしまった私を、毛布をかけた張本人は片手で口元を押さえて見ていた。笑いをこらえているようだった。だが一体誰が私を嘲弄できる? 顔を突き合わせては嫌味を言いあう間柄の、だが少々私に気があるらしい同僚が、優しい仕草とひたむきな視線でもって私を見つめていたら?
私はひどく狼狽し、ベッドの上で後ずさった。


「な、な……何をしている!」

「起きて早々騒がしい人ですね」

「どういうことだ、一体何のつもりで……」


ロックウェルは少しも動揺した様子も見せず、むしろ苦笑いすら浮かべて私を見、華奢なテーブルに向かいあう椅子にゆったりと腰かけた。テーブルには優雅なカップが2つと、同じブランドであろうコーヒーポットが貴婦人のような佇まいで載っている。その奥の壁に掛けられたマホガニー色の重量感のある時計は11時前を指していた。
壁掛け時計?


「…………」

「理解した?」


恐れと困惑を抱きつつ、辺りを見渡す私にロックウェルが問いかけた。テーブルに頬杖をつき、長い足を余裕たっぷりに組んで私を見つめるロックウェルの口元は楽しそうに弧を描いている。

どうみてもここは自分の部屋ではなかった。確かに形は同じだけれど、私の部屋にはあんなごてごてした時計はないし、金縁の繊細な模様が入ったコーヒーカップもない。どちらかといえばシンプルなデザインの方が好ましい。
サイドボードには英国の雑誌が無造作に置かれている。表紙はくすんだ色合いの、パイプを加えた男の絵だった。題名を見れば、最近流行っているらしい、学術誌だ。雑誌というものを、初めて見た。

昨夜の行動を思い返してみた。昨夜、そう、言ってしまえば閣下に振られた。彼の部屋を出て、それからどうしたか、覚えていない。ただ、涙が止まらなかったのは覚えている。暗い廊下を走りながら、思い浮かべた人物も、覚えている。


「……私が、君の部屋に来た?」


羞恥心を押し隠そうとしたが、それが成功したとは到底思えなかった。どう考えても見栄を張って堂々と言えるようなことではない。ロックウェルはおかしそうに笑った。


「そう。貴方が私の部屋の前で、眠りこけていたものだから、一応ベッドに運んであげました」


手慣れた様子でカップに注がれるコーヒーが、旨そうな湯気を立てた。ロックウェルはカップをサイドボードに置き、私に薦めた。私はちょうどコーヒーを飲みたいと思っていたような気になって、躊躇しつつもそれを手に取った。


「……すまん」

「いいえ。ぐっすり眠れたようで、よかったです」


私の隣に腰掛けながらロックウェルが言った。女性を口説くときに使うような優しげな微笑に、なんだかいつもと違う雰囲気を受けて私は思わず目をそらした。今日の彼には意地悪なところが微塵もない。それはむしろ、私に親近感を与えていたものだというのに。

熱いコーヒーが喉に落ちて、ぼやけた思考をクリアにさせる。私がカップに口をつけている間、ロックウェルは何も言わなかった。わざわざ自分からこの部屋に来た事情を話し始める気にもなれず、かといってそれ以外に気のきいた会話をするような間柄でもないので、彼がこの沈黙をよしとしているらしいことはありがたかった。だが一方、気を使われすぎているような気がして居心地が悪くなった。まして相手はロックウェルだ。
私はカップをサイドボードに置いた。


「悪いけど、気がついたのが朝だったから、それまで廊下に放置でした。すみません。体、痛くない?」


首を軽く回すと寝違えたらしい痛みがあったが、私は「別に」とだけ返事をした。昨夜の出来事や今の状況に比べればそんなことはどうでもいいのだ。


「……聞かないのか」

 
私の言葉にロックウェルは微かに首をかしげて、伺い見るような目付きをした。

 
「何があったか」

 
森深くの湖水を思わせる穏やかな瞳に、私は若干気後れしながらそう付け足した。聞かないのか、だなんて。聞いて欲しいのは自分の方だというのに。

 
「別に。貴方から話してくれると思ったから。そうでなきゃ、あんなとこに寝ていないでしょう」
 
 
なるほど。最もだ。
いつも顔をつきあわせては互いの機嫌を損ねることに心を砕いている仲だというのに、いざというときには頼りにしているだなんて、恰好悪い上に照れ臭い事実をあっさり見破られていたのは癪ではあったが、もはやそれを否定する意味もない。この男は恐らくそういった人の心の動きに敏感なのだ。彼に女性関係の噂が絶えないのも、彼のその資質が女性を寄せ付けるのだろう。
私は何から話すか考えあぐねて、結局、端的に、正直に話すことにした。いろんな前置きはもはやこの男には不要だろう。
 

「振られちまった」

 
私の言葉は些か唐突な感じがしたし、不自然だったかもしれない。軽い感じを装おうとしたのが裏目にでて、きっと不恰好に聞こえたと思う。
ロックウェルの返事はなかった。ただじっと、私を見つめていた。その視線は話の続きを促すでもなく、同情を表しているでもなかった。彼らしくなく、何度か瞬きをして何かぴたりと当てはまるであろう事柄を思い起こそうとしている様子は、単純に言葉の意味を理解できなかったらしい。
 

「……は?」

 
ようやく返ってきた、子供みたいに無頓着な反応に、私は些か落胆した。
むしろ、私が彼の部屋の前で眠りこけ、その扉が開くのをずっと待っていたという事実から、私がそこにいた理由なんてお見通しだったに違いないとすら思っていた。
 

「だから、振られた。好きだと言って、ごめんなさいってこと」

「……」

 
形良い茶色の眉が訝しげにひそめられる。彼の方でも事態の深刻さは理解しており、滅多なことを軽々しく口にしないようにしているようではあった。
 

「……あのー、誰に?」

「察していたんじゃなかったのか?」

 
ロックウェルは人差し指を唇にあてて数秒間中空を見つめて考え込んだが、やがて恐る恐るといった調子で言った。


「まさか……閣下」

 
 
そのまさかだ、と昨日の今日で冗談めかして言えるほど図太い神経を持ち合わせてはいなかった。閣下、と自分以外の人間の口から聞くと、そうか、彼は自分だけのものではなかったのだ、と今更ながら気がついた。
何も答えない私に対し、ロックウェルは両手で前髪を後ろにかきあげ、大きくため息をつき足元に視線を落とした。彼なりの理由で落胆したにしても、そんな仕草は大袈裟すぎる。
 

「何だよ、それ。落ち込みたいのは君じゃないだろう」


私は少々苛立たしい思いを込めて言った。ロックウェルは顔を上げなかった。


「いや、あんまり驚いて。何でまたそんなことを? 閣下の答えがわからなかったわけでもないでしょう。どうして自分からわざわざ傷つきに行くようなことを?」

「別に……本当のことだから」


あんまりずばり言われて私は委縮した。顔を上げたロックウェルは険しく眉をしかめて私を見た。彼にこんな風にみられたことは今までに一度たりともなかった。いつだって言葉と表情を別々に使い分けて、相手の機嫌を害さないぎりぎりの態度を取って、当たり障りなく人間関係を保っていたのがロックウェルとう人間だった。今の彼は自分の感情を隠そうともしていない。


「そんなの、今までずっと同じ気持ちだったのでしょう? 今までそうやってきたのに、なぜ今になってわざわざそんな自殺行為……。もちろん貴方の行動に口出す権利はないけれど……それにしたって、あんまり軽率すぎるというか」
 

自殺行為だって! あまりの言われように、私は反論する気もなくしてしまった。
ロックウェルは上空に向かって息を吐いた。私の方を見ようとはしなかった。むしろ、私と反対方向の空間に顔を向け、ベッドに深く腰かけなおした。
だが私は、彼の眼元が密かに細められていたのを見た。彼の口角が興奮と期待を押し隠した微弱な震えとともに上がっていたのを見た。
 
 
「……君が言ったんじゃないか」

「何を」

「正直になれって。正直でいた方が楽だって」


私はいつか食堂でロックウェルに言われたことを思い出して言った。


「あれは……閣下に正直に言えという意味ではなくて、貴方自身が自分に正直でいろと……」

「正直になって、楽になった。そりゃあ、今はきついけど……好きな人の前では、正直でいたかった」
 

ロックウェルの表情が急にガクンと落ち込んだ気がした。……正直になりすぎるのも考えものらしい。

 
「まあ、すっきりしたのは確かだよ。今後のことはわからないけど」

「諦めるんです……か?」

 
恐る恐るといった口調だったが、私を見つめる彼の瞳は「諦めなかったら絶交だ」とでも言い出しそうな挑戦的な色が浮かんでいた。委縮半分、物珍しさ半分で、私は苦笑を浮かべた。ロックウェルの反応はまるで年頃の少年のようにわかりやすかった。
 

「……ま、それが妥当だろうな」

「本当にそう思ってるんですか?」

 
疑心と不安に揺れる瞳が私を覗き込む。私は彼の率直な反応に少し得意になっていた。私の言葉で彼がどのような気持ちになるか、直感的にわかっていた。

 
「思ってるさ。少なくとも理解はしている。行動が伴うかはまた別の話だけど」

「やっぱり」

「仕方ないだろ。努力はするよ」

「俺のことを好きになる努力?」

「なぜそうなる……」

 
脱力し、揶揄の意味も込めてそう言ったが、ロックウェルは少しも笑っていなかった。急に大人びた表情で、つまり、いつもの取ってつけたような理知的な態度を取り戻し、私を見つめた。胸の奥でざわめくかすかな期待までも見透かされているような、あまりに真っ直ぐな視線だった。

 
「冗談抜きで、俺、本気になりますよ?」

「……勝手にしろよ」
  

そう言った直後、肩を抱き寄せられた。突然で体勢を整える間もなかったもので、私は片手をベッドに立て、もう一方の手は私の肩に回された彼の腕にかけて、なんとか体勢を保った。顔は上げられなかった。痛いほどに、割れそうなほどに、私の胸は激しく鼓動を刻んでいたからだ。
居心地の悪い姿勢のまま、しばらく抱きしめられていた。少し足の向きを変えて、姿勢を楽にしたところで、私の背に回された腕の力が緩んだ。


「このまま、キスしたら怒りますか?」

「それは……怒る」

「どうして」

「あのな、私は……その、つまり……失恋したばかりで、昨日の今日で……そんなの」


正直なところ、彼の接吻を別段嫌がっていなかった自分に驚愕しつつも、私はしどろもどろに正論を説いた。軽薄な人間は嫌いだ。よりによって自分がそうなるなんて、言語道断だ。『人間の価値が決まるのは思索によってではなく、行為によってである』。そんな昔の哲学者の言葉を思い出して自分を正当化した。

頬にしっとりとした感触があたった。一瞬だった。

ロックウェルの口元が柔らかな満足をもって笑みの形を描いていた。思いがけず、唐突に、ある種淫らな感情が心の片隅に生まれた。私は目を伏せた。
ロックウェルの健康的な色をした薄い唇が、目に焼き付いて離れなかった。その唇の味わいはどのようなものか、暖かいのか、冷たいのか、気になって仕方がなくなった。なぜ今まで気にならなかったのだろう。彼の唇や、柔らかな癖のある髪、長い睫毛に隠れる機知を感じさせる穏やかな瞳が、どれほど魅力的に映ることか。年頃の娘が彼に対して抱く感情を今まさに私は味わっていた。

そして、私の中で甘美な予感が胸を満たし始めている事実に気がついた。その予感の向こうには、眩しい太陽や、強すぎない風や、軽快な音楽とか、流行の洋服だとか、そう言った楽しいものしかないように思われた。今まで苦痛でしかなかった夜通しの夜会のもったいぶった管弦楽、酒を含んだ人々の愛想笑い、外から見ればまるで火事にでも見えるのではないかと思うほどの豪華な電飾だとか、そういったものまできっと私を楽しませてくれるだろうという予感があった。なぜならそこにいる私は一人ではないからだ。
ロックウェルが立ち上がった。彼の向こうの壁掛け時計を見れば、昼時になっていた。


「どこか出かけませんか。せっかくの休日だ」


私は自身を正しく実直な人間であると決め込んでいたので、その誘いにすぐに返事ができなかった。ロックウェルはそんな私を察して、無理やりに立たせて服を替えてくるように言った。

自分の部屋へ緩慢な足取りで向かう途中、暗い寝室の中、ランプに照らされた閣下の顔が思い浮かんで、すぐに消えた。昨日まで私がどんなにか憧れ、陶酔し、共有したいと思っていたそのイメージは驚くほどすぐに消えたのだった。昨晩恐れの中で走り抜けた渡り廊下は日光が斜めに入ってきて、足もとのくすんだ赤い絨毯を四角く照らしている。空に響いて消え入る兵たちの訓練の声、中庭の噴水の水音、日に焼けた絨毯を踏む私の足音。世界はまるで違って見えた。
窓から差し込む太陽の光を浴びたロックウェルの髪が金色に光っていたのや、新鮮でみずみずしい瞳の煌めきや、若い笑顔が、既に私を違う世界に既に連れ出していた。

外出用の服に着替え、豪奢な扉を手で押して、屋敷を出ればロックウェルは門のところで石壁に背を預けて私を待っていた。彼は片手をあげた。私は彼とどんな風に顔を合わせればいいのか分からず、脇にあつらえられた鮮やかな原色の花々で翳された低木にさも興味がある風を装いながら、白い砂利を敷き詰めた道を踏みしめた。
事実、その時の私には見慣れた庭園も、今までになく、より鮮やかな色彩を伴い、今芽吹いたばかりの春の小草のような瑞々しさを持っているように見えたのだ。肌を撫ぜる初夏の風が、こんなにも爽やかで腫れた瞼に優しいことを初めて知った。そして、私を待つロックウェルの長い足や、濃いブルーの上品なツイード地の上着や、優雅な佇まいに、まるで彼が今までと違った風に見えて、心臓が激しく脈打ち、そんな自分に愕然としていた。

そんなだったから、屋敷を出た時にあの人とすれ違ったらしいことも、私はすっかり気がつかなかったのだ。